MENU
PVアクセスランキング にほんブログ村

ミュージカル【ドリームガールズ】の世界観に入り込みにくかった理由と学んだ事

先日無事大千穐楽を迎えた望海風斗さん主演「DREAMGIRLS」

これまで出演者の感想や衣装、装置についての感想を書きました。

前回書いた記事の通り、日本初演版「DREAMGIRLS」は出演者全員歌が上手く実力派ばかり、衣装も宝塚歌劇団の有村淳先生が手掛け豪華、装置も工夫を凝らしたもので総合的に非常に良い舞台でした。これは大前提です。

ただし、正直に言うと、これだけの役者が揃い、衣装も豪華で分かりやすいストーリーだったにも関わらず、1幕の終わり頃、リードボーカルの交代劇ぐらいまでは(歌とか衣装凄いんだけどなんか入ってこないかも…)という感想が頭の中にふんわりとありました。

目次

注意

以下の記事には、全く差別的な意図はありませんが表現上「ブラックフェイス」「黒人」「白人」という記述があります。

近年の舞台演出の流れについても学んだばかりなので稚拙な点あると思います。

あくまでも個人の感想であり感じた事なので、そういった問題に対して敏感な方はお互いの為に読み進めるのをお控え頂ければと思います。

そして後述する「観劇中に感じた感想」は、ブラックフェイス問題について知らなかった当時の感想です。

今回の観劇で感じた違和感から”調べる”という事をして、過去や舞台演出も変わりつつある経緯を知り、考えるきっかけができた事はとても学びになりました。

ではまず、観劇当時の感想を書いていきます。

キャストのメイク薄すぎ問題

序盤のオーデション”MOVE”からもうこれは良作だろと思うくらいに目も耳も幸せ!

これぞ舞台って感じのファーストインプレッションで、男性キャストによる”Steppin’ to the Bad Side”も迫力あり重厚感ありで釘付けになってるんですが、頭の片隅に1ミリくらい残る”なんか入ってこない感”

この違和感の正体を自分なりに分析した結果「メイクが薄すぎて黒人に見えない」が原因かなと思いました。

この物語は登場人物のほとんどが黒人で、まだ差別が色濃く残る1960年代のアメリカが舞台。

1幕ではせっかく力を注いだ曲を白人歌手にパクられたり、ツアー先で黒人専用白人専用看板などがスクリーンに映し出されて当時の差別描写が出てきます。しかしそれでも差別や偏見に負けずに進もうと奮闘する姿とその先の成功、そして何があってもみんなファミリーだという団結力がベースの物語です。

しかし出演者のメイクが薄すぎてあまり黒人には見えず、なんなら白人とほぼ同じなのでは?くらいのキャストもいて、上記のような差別を乗り越えていこうとする世界観に全然入り込めなかったのです。

作品のテーマと表現の矛盾

“Cadellac Car”が白人の歌手に盗作される場面や、スターになったドリームガールズを取り巻く白人スタッフ達などが出てきますが、キャスト間のメイクにそれほど差が無いために(あ、金髪だから白人か)みたいな見分け方になってしまいました。

ドリームガールズ達も白人に見える事があり、やっぱり美の基準が白人になってないか?みたいな脳内拗らせを起こしてしまいました。

「黒人音楽と人種の壁、そしてそれらを乗り越えた先の成功や家族愛」がメインテーマなDREAMGIRLSにおいて、やはりこの肌色抑えめメイクはノイズでしかなく、彼らの苦悩やカーティスの「黒人の歴史を変えるんだ!」という台詞も全然説得力を感じませんでした。

ブラックフェイス問題を知る前は、逆にこの肌の色を曖昧に表現する事自体が差別的な事ではないのかと感じていたのです。

余談ですがこの記事を書くにあたり”Cadellac Car”のパクリ描写の元ネタが、チャックベリーの”スイート・リトル・シックスティーン”という曲をビーチボーイズがパクってあの有名曲”サーフィンUSA”として歌詞を変え発表し、大ヒットしたという史実を知りショックを受けました。

メイクの工夫や歌唱力での表現

普段私は宝塚歌劇を中心に観ているので、どうしてもメイクが足りなく感じてしまったのもあるのかもしれません。

あとは照明や座席の関係もあるかもしれないけれど、やはり出演者のsnsやメイク動画を見ても全体的に薄めでした。恐らくある程度の指示はあるのでしょうか。

調べた結果、皆さん各々でメイクをしていたようです。なのでキャスト間で少し表現にバラつきがあったのかなと思いました。

人によっては肌色を濃く塗らずとも、頬紅の色や目元の色で工夫をしているように見えましたし、違和感をあまり感じない人もいました。

あとは出演者全員の歌唱力と演技力で”ソウル”をめいいっぱい表現していたのかなと思いました。

このキャスト全体が歌うまでお芝居も素晴らしかったからこそ、ソウルフル、パワフルに楽曲を歌い上げる事ができ、外見以外でのアプローチができたのかもと思います。

実際、世界観に慣れた2幕以降は安定して観る事ができました。その分1幕で脳内処理をするのに時間がかかってしまった事が残念でした。

その後、舞台めちゃくちゃ良かったけど、やっぱ外部のメイクって薄めが基本なのか、やはり何か昨今の流れ的に配慮や規制がされているのかと思い調べました。

ブラックフェイス問題

調べると「ブラックフェイス」に行きつきました。

恥ずかしながら今回調べるまで「ブラックフェイス」という言葉自体を知らなかったです。だからこそ「DREAMGIRLS」を観て上記のような感想になってしまいました。

ブラックフェイスとは、元々アメリカで19世紀に白人が黒塗りをして黒人を揶揄したショーを始めた歴史があります。

アメリカでは100年ほど前、イギリスでは40年ほど前まで続きました。Wikipediaによるとブラックフェイスとは「黒人以外の演者が黒人を演じるために施す舞台化粧」とありました。

私はこれまで宝塚で黒人の登場人物のメイクを観ていたし、バラエティーや笑いを取る為にするのはアウトだけど、舞台上で敬意をもって表現する分には何の疑問も感じた事がありませんでした。

「DREAMGIRLS」はカツラで人種の見分けをつけるように工夫されていたけれど、黒人は黒髪やアフロ、白人は明るめの金髪。髪で見分ける事は差別に当たらないのか?と観劇当初は思ってしまったのですが、やはり異人種が「黒く塗って表現する」という行為自体が歴史上の観点からアウトなのだろうと思います。

そこに例えリスペクトや尊敬の気持ちがあったとしても、そういう問題ではないといった当事者達の意見が今回調べてみてありました。

そしてこのようにここ数年「肌を塗って人種を表現する」といったメイクや「脱ブラックフェイス」の動きが日本の演劇界でも起こってきているようです。

長くなるので、これについて調べた事についての記事をまた後日アップします。

まとめと今後の課題

繰り返しますが舞台は本当に良かったです。出演者、音楽、衣装、装置どれを挙げてもここまで全部最高レベルな舞台って本当に貴重です。

ブラックフェイスについての知識が無かったから、当初は肌を表現しない事自体が差別ではないのかと感じてしまい、物語の世界観に入り込む事ができませんでした。

しかし今回これをきっかけに調べ、ここ数年でも日本の演劇界では「ブラックフェイスからの脱却」の動きがある事を知りました。

この「DREAMGIRLS」の公演で、望海さんが「日本でこの演目をすることの難しさを感じ、やろうと決めた制作さんや演出家の真鍋さんと覚悟を決めてやらないと」とおっしゃっていたようで、やはりこのテーマはまだ手探り状態の中で、難しい問題なのだろうなと思います。

この日本において、現在は役者のほとんどが同一人種で占めているので、今後このブラックフェイス脱却の流れの中で肌を塗る事自体もNGになるのなら、やはりどう表現していくかが課題ですね。

実際この公演でDREAMGIRLSの映画を見た事がなく観劇した人で「途中まで黒人の物語と気付かなかった」といった感想や、物語を知っていても私のように「なぜ?」という感想もいくつか見かけました。

お笑いや揶揄するのはいけない、でも演技上なら黒塗りで肌の色を表現する事は問題ではないと思っている層もまだまだ多いと思います。

私も何が問題なのかも知らなかったし、それが差別行為にあたる事とは思ってもいませんでした。

この流れはここ数年、特に2017年の年末に起きたダウンタウン浜田さんのガキ使黒塗り問題以降に広まっていったような印象です。

逆に今回知ることができて、今後の舞台の見方をアップデートして観られるのかなと思います。そしてこの記事を読んだ事がきっかけで今回初めてこのような背景があったんだと知っていただけたなら嬉しいです。

日本の演劇界においてはまだここ数年の動きだし、表現についての課題は残りますが、この動きがもっと広まった頃、この記事を5年後10年後に読み返す頃には「古い」という感覚になっているかもしれません。

読んだよって方は↓を押して頂けると嬉しいです!

にほんブログ村 演劇・ダンスブログへ
にほんブログ村
よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

CAPTCHA


目次