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ハロウィンに抑圧された感情を爆発させていた頃の話

ハロウィンの存在が日本に一般的に広まったのは1990年代から2000年代頃とされている。その頃はアメリカと同じように主に子供向けのイベントというか、お店がハロウィン仕様に装飾されるくらいで、そこまで誰かが何かに参加するようなものではなかった。

ハロウィンの時期に渋谷スクランブル交差点での人混みをニュースで取り上げられるようになったのはいつからだろう。調べると2014年には既に大混雑する渋谷の街でDJポリスが出動し、参加者への注意を呼び掛けていた。

年々ハロウィンに渋谷へ集う参加者は増加し続け、衣装もどんどん個性的なものへと変化し、中にはそれ痴漢大丈夫?と心配になるくらい露出がすごい衣装で出歩く人も増えた。日本独特のハロウィンに外国人観光客も増えた。それは渋谷だけに留まらず全国に広がり、新型コロナウィルスが流行する前年の2019年にピークを迎えていたような気がする。

また「地味ハロウィン」という渋谷ハロウィンの”陽”の盛り上がりとは真逆というか、一つの会場から「どこにでもいそうな人」のコスプレをして控えめに盛り上がるというジャンルも登場した。こちらもDJポリスが登場した2014年にデイリーポータルZ編集部が少人数でスナックを貸し切った所から始まっている。

初期は参加人数も少なめながら「区役所で婚姻届けをくれる人」「本社から現場に来た人」など、「あるある」と笑ってしまう参加者の目の付け所とはまり具合が面白く、評判と知名度はSNSによって年々上昇し「#地味ハロウィン」のハッシュタグがtwitterのトレンドに表示れるようになった。

2017年頃に地味ハロウィンはテレビでも紹介され始め、多くの人が知るものとなった。当然参加者も急増し、会場からの参加だけに留まらず、各々ハッシュタグをつけて全国各地からの投稿も増えた。知名度が上がるにつれ、単なるアイドルのアピールだったり、それ地味ハロウィンか?と古参めいた感想を抱いてしまう投稿も見かけるようになったが「#地味ハロウィン」のハッシュタグで検索をかけるのは毎年本当に楽しみだ。

そもそも日本でなぜこれほどまでにハロウィンでのコスプレ文化が広まったのか。なぜこれほどまでに日本人は仮装したがるのだろうか。

それは恐らく小さな頃からある程度周りに合わす事を求められ、学生にはきちんとした校則があり、社会人になってもそれ相応のビジネスマナーや服装、モラルを求められ、皆決められた枠の中で少しでも個性を出すと叩かれる、だから右に倣えの毎日で抑圧されているからではないだろうか。

本当はもっとこう振る舞いたい、だとか一時だけでも注目されたい、そういった静かな欲求と「みんなもやってる」という安心感、DNAに組み込まれた祭り好き気質がちょうどよくハロウィンのイベントにマッチしたからではないかなと勝手に思っている。

ハロウィンを口実にして普段とは違う自分を楽しめるのだ。

ここまで書いてきて、ハロウィンにコスプレする人はイベントに乗じて日頃の抑圧を解放している、みたいな事を書いているけど、非常識で迷惑な行動をする人とは別として、その精神は特に批判しようとは思わない。分かる。私もハロウィンコスプレをして日々の抑圧を解放し、めちゃくちゃハロウィンイベントを楽しんでいた側の人間だったからだ。

今から15年程前アメリカに留学していた。その頃、現地のアメリカでもやはりハロウィンは子供が仮装してお菓子を近所にもらいに行くスタンダードな物で、大人で仮装しているような人はほぼいなかった。いたとしてもお菓子を配る保護者がちょっとした仮装をしていたり、店員さんが顔に少しのペイントをしているくらいだった。

大人になってディズニープリンセスだのメイドさんだのの恰好をしてワイワイしているのは通う学校では日本人のクラスくらいだった。(当時の体感です)

これは毎年現地の先生が日本人クラス向けにハロウィンパーティーを開催してくれていて、始めは猫耳をつけたり、魔女帽子を被ったりするくらいの仮装だったのが、私たちの少し前の代から本格的な気合いが入ったコスプレ大会に変化していたようだった。

この噂は知っていて、普段から人の意見を気にして自分を出せず、抑圧されまくりの承認欲求タラタラだった私は勉強の事よりもハロウィン当日はめちゃくちゃ気合入れようと意気込んでいた。人と同じ事はしたくない、誰よりもインパクトを残したい、吉本に入りたての芸人みたいなマインドだった。

ハロウィン2か月前の8月には既に古着屋さんでイメージに合うクラシカルな白のブラウスと黒いスカートを購入し、血糊で染めた。スカートはボロボロに裂いた。何度もメイクの練習を重ねて、誰よりもハロウィンパーティを心待ちにしていた。

そんな魂心の仮装は「血まみれの人」

今となっては血まみれのナース服やセーラー服の仮装が珍しくもないが、当時はまだそんな恰好の人は見かけなかった。というかアメリカの街なかでやったら即通報されると思う。

当日は学校のトイレでその衣装に着替え、真っ白なファンデーションを塗って黒のリキッドとパウダーで目の周りを囲んだ。ちょうど初期の鳥居みゆきみたいなメイクで目から血が垂れているように血糊を塗り、よりリアリティを出すため血糊を飲んで吐いて更にブラウスと首を血で汚した。当時の私はそれで満足だった。きっとこの仮装はクラスのみんなの注目を集めるだろう。

教室に入った瞬間クラスで一番悪かった不良の男の子が素で「ぎゃ!」っと叫んだ。クラスの先生は”Victim!”(犠牲者)と言った。やりすぎた。

教室には魔女とかプリンセスとか妖精さんがいて、なんていうかみんなとても可愛くて、男の子もドラキュラとか女装してたりして、なんかキラキラしてた。青春って感じだった。

そのみんなと撮った写真は今見返すとどれも完全にすごくくっきりした心霊写真みたいになっている。

目を見開いて臨場感たっぷりに床に倒れこんだポーズの写真はクラスのみんなから「チェーンメールで怖い文章の後に添付されてそう」と評された。みんなの記憶とデジカメのデータから消えてますように。

今思い出すと顔を手で覆ってワーワーなるこの状況も、当時はやりたい恰好ができてとても満足していたし楽しかった。その開放感が忘れられず、信じられないことに帰国後もハロウィンには血まみれの仮装をしてイベントに参加するようになっていた。

といってもまだ私の住む大阪ではハロウィンコスプレが今ほど街なかで見られるような状況ではなく、どこで参加していたかというと当時本町にあったハードロックカフェで開催されるハロウィンイベントだった。

この当時は電車に乗って外から仮装して来店する人はほぼおらず、みんな店のトイレで着替えていた。そしてまたトイレで着替えてメイクを落とし帰っていく。

店員さんもお客さんもみんな仮装して知らない人と写真を撮り合いコスプレを称えあった。メインイベントの仮装コンテストで盛り上がり、ハロウィン仕様の目玉が乗ったケーキを食べた。締めは大音量の音楽の中でよく分からないダンスを踊った。めっちゃパリピ。1日だけパリピ。この時だけは違う自分になれたような気がした。

毎年参加していた訳ではないが最後に参加したのはちょうど渋谷がハロウィンのメッカになる辺りの2012年だった。年々人数が増え、雰囲気が変化していた為、無事血まみれハロウィンを卒業できた。

そしてその後わりとすぐ、宝塚メイクをして宝塚の衣装を着て写真を撮ってもらえるサービスにハマる事になるのはまた別のお話。

あれから時を経た現在の私は、社会の歯車として血反吐を吐く毎日を過ごしている。

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